1分で分かる乾しいたけの歴史、レッツ・スタート!
日本でいつ頃からしいたけが食されていたかは定かではありませんが、一説によると9世紀頃、唐から帰国した弘法大師が乾しいたけを日本に伝え、また同時期に日本から唐へ輸出されるようになったと言われています。
文献に初めて登場するのは1237年、道元禅師によって記された「典座(てんぞ)教訓」です。
料理書に現れるのは16世紀に入ってから。五目飯、汁物、煮物などのほか、お菓子や白鳥料理のにおい消しといった今ではちょっと考えられないラインナップも登場します。
江戸初期には人工栽培が始まり、やがて武士や庶民の口にも入るようになります。けれど、昭和30年代頃まではお盆やお正月などあくまで特別な日のご馳走として扱われてきました。(昭和40年頃までは松茸よりも乾しいたけの方が高価でした。)
阪神地域が流通の拠点となりましたが、江戸末期頃からは静岡や九州などの主産地で独自に集荷・販売が行われるようになっていきます。
戦後は生産地が全国に広がり生産量が増えました。これまで中国や香港への輸出が活発だった乾しいたけにも内需中心の時代がやってきたのです。
そして、各地での市場開場にともない乾しいたけが仕入れやすくなり、東京や名古屋などの卸商が阪神から独立していきますが、昭和40年代頃までは最大の集散拠点はやはり阪神地域でした。
また、高度経済成長期には全国各地の山村で過疎化が進み、乾しいたけが山村地域の経済を支える希望の星となり、盛んに振興が行われるといった事もありました。
日本人の食は豊かになるとともに、西洋化も進み「ハレの日」の文化は薄れていきます。ちらし寿しなど特別な日の料理に使われていた乾しいたけは、家庭用、給食、料理店と、使われる場面が変化していきました。
さらに家族形態の変化、女性の就労率上昇など人々のライフスタイルや価値観が変化する中、調理が簡単なものや外食が好まれるようになり、加工品・半調理品などが支持を得るようになっていきます。乾しいたけを戻す作業は面倒だとして、昭和50年代後半には家庭消費が減少する事になりました。